吉野林材業の流れ

1500年頃
(文亀年間)
川上村で人工造林が始まる。
大阪城・伏見城の建築用材として吉野材が使われる。
筏流し時代:大坂で木材問屋が成立し、木材市場が開かれる。
1670年 銭丸太の製造が始まる
1700年頃 借地林業・山守制度が始まる
1720年頃
(享保年間)
樽丸製造が始まる
1862年頃 四国巡礼僧・杉原宗庵が吉野地方の樽丸割りを見て、下市町にて割箸の工法を伝授。
1865年頃
(慶応年間)
全国的に大濫伐が流行したが、その風潮に乗らず高齢林が維持された。
木材需要が増し、材価が高騰する。
村外者の山林所有者が増える。
1877年頃 スギの林地乾燥が行われる(3ケ月間)
1915年
(大正4年)
東吉野村小川にて人工絞丸太「小川絞」が創始。試行錯誤の人造絞の研究が進められる。
この頃ほぼ現在の大山林所有形態になる。
索道による集材が始まる。
1928年 吉野鉄道が吉野山まで延長される。
この頃樽丸生産が最盛期を迎える。
1939年頃
(昭和14年)
吉野貯木場の開設
1940年 樽丸から柱角に生産目標が移行する。
この頃磨丸太生産が最盛期を迎える。
1951年 筏流送が終わり、トラック輸送となる。
山守の素材業への進出が増える。
1954年頃 檜箸の製造が開始される
1970年代 ヘリコプター集材が始まる。
吉野材のブランド化を進める。
吉野材の品質管理販路の拡大等のため吉野材センターが設立される。
1980年代 ヒノキ・スギ集成材単板(集成材の化粧板用の原板)の製品化
1985年 3月に冠雪被害を被り激甚災害指定を受けた
1998年
(平成10年)
9月に発生した台風7号により激甚災害指定を受けた。
吉野林業地帯も大きな被害を受けた。
2000年 奈良県林業機械化推進センターの開所
2006年 奈良県森林環境税導入

吉野林業地域

 吉野林業といわれている地域は、広義には吉野郡全体を指している。その成立の経緯などからみて、一般にはもっと狭い範囲、即ち奈良県の中央部を東西に流れる吉野川の上流域にある川上村、東吉野村、黒滝村の3村で構成されている地域をいう。

吉野林業の沿革

 吉野地方では、足利末期(1500年頃)に造林が川上村で行われた記録がある。一般に吉野の材が多量に搬出されるようになったのは、天正年間、秀吉が当地を領有し、大阪城や伏見城を始め、畿内の城郭建築その他社の普請用材の需要が増加し始めた頃からである。その後、当地方は徳川幕府の直領となったが、住民の主たる生業は木材の伐出流送によって維持されてきた。
 木材需要の増加に伴う生産供給の増加は、山地の森林資源を漸次減少せしめ、そこに造林の必要性を生じさせた。山地で耕地に乏しいことから、森林資源を維持培養し、木材の販売で生活するほかなかった。しかし、その伐出生産の過程でも利益を得ることが少なく、一方村に課せられる貢租は高く、一般村民には資本を蓄積する余裕はなかった。村としては租税の支払いに窮し、郷内の有力者に林地を売却、或いは造林能力のある者にこれを貸し付ける制度を設け、造林を促進させた。しかし、山村の住民にはこの造林地を維持する資力に欠けていた。そのため元禄年間(1700年)を前後する頃、下市・上市及び大和平野方面の商業資本の消費貸付を通じて借地林が発生していった。木材の販路の拡張、とくに寛文年間(1670年)から始まる銭丸太の製造、享保年間(1720年)から始まる山地での樽丸製造などの木材利用技術の発達による販路拡大に伴い、漸次造林の方法が集約化し、又木材業者の組合による筏流送の改良等の資材投入により、搬出費が節約されるにつれ、造林可能区域が拡大していった。
 全国で大乱伐が行われた維新前後にも、この地方はその風潮にのらず、高齢林は維持され、明治10年前後(1877年)の材価の騰貴した時代に、高齢林はやや減少したが、一方、再造林は確実に行われ、更に天然の雑木林が林種転換され、スギ・ヒノキの人工林が拡大した。基本的には長伐期施業が行われているが、明治終期頃から磨丸太生産が一部で行われ始めた。時代の変遷により、1940年頃に樽丸から柱角の短伐期になり、1970年代の吉野材ブランドの林価高騰時代、1980年代のヒノキ・スギ集成材単板の時代と大別される。太平洋戦争の強制伐採と戦中・戦後の人手不足は、一部に未植栽地を生じたが、数年をたたずに復旧され、集約的な施業が維持されている。

(奈良県制作パンフレット「吉野林業」より抜粋)